その日、俺は仕事の帰りが遅くなった。
不景気なこのご時世、サラリーマンの残業なんて当たり前でしかたがない。
俺は一人、車を運転し薄暗い帰路に着いた。
疲れが溜まっているので、自然に溜息ばかり出る。
俺はなんとなく、バックミラーを見た。
後頭部座席に女が座っていた。
俺はびっくりして、後ろを振り返った。後頭部座席には誰もいなかった。
疲れがたまって、幻覚を見たのだろう。気を取り直して、前方を向こうとした刹那、
「誰を探しているのかしら?」
助手席にはいつの間にか女が座っていた。俺は驚きのあまりブレーキを踏んだ。
「あらあら、あなた、危ないわよ。ちゃんと運転して」
俺の車はずっと走っていた。誰かが乗り込めるはずもないし、最初から俺一人しか乗っていなかった。
助手席に座っている女は、平然と当たり前のように座っていた。
俺はこの女を知っている。長い黒い髪、上品な仕草。この女が何故ここにいる?
「おおおお前、ゆゆ優貴か?」
「名前覚えていてくれてたのね。嬉しいわ」
俺の助手席に座る優貴が言った。前と変わらず穏やかな声。
「ま、まさか!忘れるわけ……ないだろう……」
俺の体は震えていた。冷や汗が背中を通る。
呂律がうまく回らない。それも全て恐怖からくるものだ。
「そう。嬉しいわ……私は一時もあなたの事を忘れた事ないのよ」
優しく優貴が言った言葉はとても冷たく、俺にとって恐ろしいものだった。
「ねぇ、あなた知ってる?」
俺は「何を?」と言いたかったが言えなかった。
言葉がのどに詰まる。
優貴は話続けた。うっすらと微笑んでいるようだった。
「女は情が強い生き物なのよ」
気がつくと、俺の車は走っていた。俺の手には汗で濡れている。
「ゆ、優貴、悪かった。本当に悪いことをした」
「あなた、本当にそう思っているのかしら?裏切った人を一体誰が許すのかしら?」
優貴は三年前、死んだ女だ。
優貴は世間知らずのお嬢様で俺を愛した。
でも、俺にとってそれは単なる遊びで、結局、優貴は邪魔になって俺は別れたんだ。
優貴はその後、自殺した。
なぜ、今頃優貴が俺の前に現れるんだ。
「優貴、お願いだ、成仏してくれないか?俺の事忘れてくれ、なっ?」
「あなたは本当自分勝手な人ね……ふふふ、あれだけ酷い事をしといて」
「優貴……お前は俺を殺す気か?」
俺の声は震えていた。わかっていた。優貴は最初から俺を殺す気なんだということを。
死にたくなかった。俺には今、家庭がある。妻もいる。子供もいる。
自殺の原因は俺が原因だとわかっている。けど、俺は生きたい。
「優貴頼む……本当に本当に悪かった」
俺は泣いていた。死にたくなかった。生きたかった。
俺は本当に後悔した。本当に俺は最低な男だ。
人の気持ちを考えもしなかった最低な男だ。
「本当、あなたは自分勝手な人ね……」
優貴はそう言うと静かに笑って、消えた。
もしかして優貴は俺のことを許してくれたのだろうか。
気がつくと、俺はもう自宅の前までに来ていた。車を車庫に入れ、俺は車から降りた。
今までの事は全て夢だったのかもしれない。
優貴を自殺に追い込んだ罪悪感が俺に見せた幻かもしれない。
それにしても、どうしてこんなに首が痛いんだろう。
玄関の鍵を開けようとした時、俺は気づいてしまった。
玄関の扉に反射的に写った自分の姿。
そこには俺の首を絞め、笑っている優貴がいた。
「言ったでしょう。女は情が強い生き物なのよ…」
優貴は一生俺を離さないつもりのようだ。